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2011年1月12日水曜日

楯築遺跡を訪ねて

薬師寺慎一先生の「楯築遺跡と卑弥呼の鬼道」を読んで気になっていた楯築遺跡に行ってきました。
岡山大学名誉教授で亡くなられた近藤義朗先生が発掘調査をされて、「弥生式墳丘墓」と名前を付けられた、前方後円墳の原型ではないかといわれる墳墓である。
近藤先生は前方後円墳の研究で有名で、その著書の中で「前方後円墳は吉備から始まったのではないか」という事を示唆されている。
この近藤先生の発掘調査で、ここから大量の朱(水銀)が出てきたそうである。
薬師寺慎一先生はこの近藤先生の調査の資料を基に、古墳時代を迎える前の弥生末期の時代に、吉備には「卑弥呼」か、卑弥呼と同等の力を持った女性首長が支配していたのではと推論している。
この後、造山古墳を訪ねた。

薬師寺慎一先生は、この造山古墳は「応神天皇」の陵ではないかと推論している。
それはこの古墳がその造られた時代においては、本邦第1位の大きさの古墳であり。応神天皇が吉備の兄姫を訪ねたとの記紀の記録からして、その可能性を示唆している。
記紀には応神天皇がどこの葬られたとの記録はなく。畿内にある、応神天皇陵もそれが確定されているわけではない。むしろ記紀にその記録がないことが、不思議で、それは吉備にその陵があるとはかけなかったからではないかと、薬師寺先生は推論している。
造山古墳上には荒神様が奉ってあり、そのわきに阿蘇の石でできた石棺がある。この石棺が何を意味するのか?

前方後円墳の成立には諸説あるが、成立の時代、北部九州から畿内に至る諸勢力の連合政権が成立して、その中心地が吉備ではなかったのか、そこで吉備から連合体の象徴的な墳墓として前方後円墳が成立したのではとの考えが通説になりつつあるようである。
神功皇后から応神天皇の時代に北部九州から吉備大和に至る連合体が出来て行ったとすれば、その時代に吉備がその中心地になっていて、巨大な墳墓、造山古墳が作られた意味も分かる。その後畿内、大和にその勢力の中心地が移動していったのであろう。

岡山県人の美徳とその精神、思想のルーツについて

岡山は極めて多くの偉人を輩出している。その中でも特に宗教家や宗教に関連した人物が多い。
それらの人々の思想的、宗教的ルーツはどこにあるのか?
それを今年のテーマにして行きたいと考えている。

吉備の国岡山の美徳
まず第1に天(神)を敬い畏れること。道鏡事件で和気清麻呂のとった姿勢にそれを見ることが出来る。また法然や栄西のような日本を代表する宗教家を輩出してきた。
人を愛することに篤い。和気清麻呂の姉、広虫姫が孤児を養った話は有名である。江戸期の思想に多大な影響を与えた熊沢蕃山は「愛」を武士の美徳と説いた。また、明治以降、石井十次の孤児院をはじめ数多くの福祉事業化を輩出した。
忠孝に篤い人物が多い。和気清麻呂や児島高徳はその代表であろう。
先端技術への挑戦者を多く輩出古代には鉄の加工技術や陶器の製作に優れた技術を発揮した。また前方後円墳の築造に見られるごとく土木技術にも優れていた。江戸時代には鳥人幸吉という人がいた。幕末から明治以降も先端技術に優れた多くの人物を輩出した。

枚挙にいとまがないが、吉備の風土が豊かな人材を輩出した背景にあることは間違いないであろう。

2011年1月1日土曜日

平成23年辛卯の年を迎えて

あけましておめでとうございます。
辛卯の年を迎えました。
世相は困難なことが多いですが、こういう時こそ希望が大切な時でしょう!
吉備の国が、未来を拓くそんな時を迎えているようにも思います。

今年もよろしくお願いいたします。