このブログを検索

2013年2月24日日曜日

吉備歴史探訪会3月は勝山に行きます

--(山田--23日、第4土曜日、吉備歴史探訪会の例会を開きました。この日は座学
講師の私が、すっかり日時を間違えて、到着が遅れ皆さんにずいぶん迷惑をかけました。

この日は、来月23日(土)に行く予定の勝山に因む人物「寂室元光」の話をしました。

来月勝山に行きます!
現在は、真庭市の市役所となっている旧勝山町役場は勝山藩の城跡の近くです。すぐ近くに寂室元光禅師の誕生の井戸があります。
勝山が生んだ有名人と言えば、まず浮かぶのが、宇喜多直家の妻となり、その後秀吉の寵愛を受けたと言われるお福の方、そしてシーボルトの弟子でその娘であるオランダおいねに産学を教えた石井宗謙、米国に留学し日本の法学の祖になった鳩山和夫・・・鳩山一郎の父親である。
そして一番にあげなければならないのが寂室元光師である。

来月3月23日(土)午前8時30分、下中野を出発予定です。参加希望の方はご連絡を!

090-1033-3327(山田)まで

2013年2月20日水曜日

日韓関係史①加耶を知れば日本の古代史がわかる

私はいくつかの歴史テーマについて研究しているが、その中の一つに「日韓関係史」がある。

最近竹島問題や従軍慰安婦問題などで、日韓の対立が続いている。
どうもお互いの感情や主張が食い違って、難しい状況である。

半島と日本列島は一衣帯水と言われながら、なぜその主張や感情が食い違ってしまうのだろうか?
明治学院大学の武光誠教授が書いた「日本と朝鮮はなぜ一つの国にならなかったのか」という本がある。2010年9月の発刊だが、タイトルに引かれて買ってみた。

やはり古代史、日本と半島国家の成立過程から見て行かないと、この両国家の対立の理由を探ることは出来ない。

例えは良くないかもしれないが、対立する両国家が争っているのは、サッカーの試合で、反則があったかなかったかといって争っているようなものである。激しい争いの中では、故意か故意でないかは別として、反則行為、ないしは反則に近い行為はありうるものである。お互い応援するチームがあればきわどいところで「あった」「なかった」と騒ぐものである。これが激しくなればサポーター同士が乱闘騒ぎにもなり死人まで出ることもある。

まあ、喧嘩というものは、争い出したらきりのないもので、お互いあること無いこと言って、最後どちらも傷ついて終わるものである。兄弟喧嘩も、夫婦喧嘩も同じ。
まあ、家族同士の喧嘩と言うものはどこかで収拾して、仲直りして終わればいいのだが・・・

さて、「日本と朝鮮はなぜ一つの国にならなかったのか」・・・・
と言うことは、一つの国になったかもしれないと言うことですね。

これは日韓両国のルーツを知らなければならないと言うことになります。

「伽耶を知れば日本の古代史がわかる」
慶南大学や京畿大学の教授を歴任した高濬煥(コ・ジュンファン)氏の書いた本を読むと、日本の国家成立に一番大きな係わりがあったのが半島南部にあった伽耶の国であることがわかる。
伽耶とは、高句麗、百済、新羅とともに半島南部にあった小国家群である。(加耶とも加羅とも書いたりするが同様である)。鉄産を中心に産業が栄えたが、百済と新羅が強大化する中で、その軋轢に消滅していった。その中心だったのが金官加羅国で、その国の神話は日本の神話と極めて似通っている。この金官加羅国はその後新羅に併合されて行くがその王族は新羅の国で重用され、その後その一族から統一新羅を実現に貢献する金庾信(キム・ユシン)将軍などが出ている。またその王族の一部は日本の古代国家成立に深く係わってりると言われている。


2013年2月19日火曜日

秦氏のルーツ

古代最大の渡来人集団「秦氏」・・・
何処から来たのか?
半島から来たことは間違いないのだが・・・
秦氏の渡来は、半島情勢の推移と関係がある。
秦氏の渡来は、伽耶の滅亡と関係がある。

古の辰国、半島南部にあった馬韓、辰韓、弁辰諸国

この弁辰地域に住む人々は、かつて秦の時代、過酷な労役を避けてこの地に住んだと言い伝えられていた。


寂室元光 岡山人物銘々伝を語る会で語ります

寂室元光禅師
近江の永源寺の祖、寂室元光師は美作高田、現在の真庭市勝山の生まれである。
鎌倉末から室町にかけて活躍した名僧である。元の国にわたり、いわゆる念仏禅をもたらし広めた。元から帰国してから三備一作を遊歴し、その名声は天下に響いていた。
京の天竜寺や鎌倉の建長寺から招かれるもそれを断り、林下の禅行を旨とした。
近江にあるとき、佐々木氏(六角氏)に招かれ、禅庵を営む。それが今の永源寺の元である。
数千人の弟子が集まったと言われる。
生涯、栄達を求めず、林下の禅を好んだ。
残された揮毫や偈頌(ゲジュ)が有名で重要文化財に指定されています

岡山人物銘々伝を語る会で話します
3月15日(金)18時から岡山県立図書館で寂室元光禅師の話をする予定です

寂室師に関心を持った一つの理由 藤樹先生の教えに影響か?
岡山を代表する人物の一人が陽明学者の熊沢蕃山である。熊沢蕃山の師が中江藤樹であるが、藤樹が蕃山に教えた「心法」を見ると禅の影響があるのではと思った。
戦後日本の思想界を代表する陽明学者の安岡正篤氏が「禅と陽明学」と言うテーマで語っているが、やはり禅と陽明学には接点があるのだろうか?少なくとも共通する精神性があることは間違いが無い。

寂室師が教えを説いた永源寺は鈴鹿山脈を背後にした、琵琶湖の東岸、中江藤樹が塾を開いたのは琵琶湖の西岸と地域は違うが、寂室師が教えを説いた永源寺には1000人もの弟子が集まってきていたと言われることを考えると、広く近江を中心にその教えが広まっていたことは想像に難くない。
藤樹先生の孝養の精神も寂室氏の残した教えが地域に残されていたということはあるだろう。
直接の教えではないかもしれないが何かの縁があるような気がしてならない。

永源寺
永源寺は近江佐々木氏の六角氏頼が寂室師に帰依し、その所領を寄進して開かれた近江の名刹です。

浪本澤一元跡見女子大教授の書いた「林下の禅者 寂室元光」
寂室師についての本はいくつかあるが、その中でも最もその風を記しているのが、芭蕉の研究者として有名な勝山出身の浪本澤一元跡見女子大教授の書いた「林下の禅者 寂室元光」であろう。
浪本先生は芭蕉の「幻住庵記」の「幻住」の根源は寂室の参じた中峰の「幻住」に発している。と記している。

渡元し中峰明本師に学ぶ
寂室は元より来朝していた一山一寧(1247~1317)に迎えられたが、中峰明本(1263~1323)の禅道が内外に振るうを聞き、渡元し、西天目山に登り中峰に謁した。日本より渡海して中峰師に参じた僧は20人にも登るとされるが寂室はその最後の一人であったと推察される。
中峰は30年に渡って雲水の修行を積み、あるいは草庵に住し、あるいは船中に起臥し、「幻住」をもって標識とした。日本の臨済僧の間においては、幻住は中峰を表示する名として聞こえ、中峰を幻住老人として敬服していた。
寂室は中峰に謁したのち、南支(南中国)を遊行し在元7年をもって帰国した。

帰国後主に三備一作を中心に韜晦(とうまい)を続ける
韜晦(とうまい)とは才知・学問・地位などを内に包み隠して表に出さない意味の禅語である。およそ25年間である。現在の岡山県から広島県東部に渡って、その教えた禅風が深く残っている。小堀遠州の庭で有名な備中松山(現高梁市)の頼久寺も寂室の開基とつてられているのはこのあたりのことであろう。

天竜寺や建長寺の招きを断る

近江佐々木氏(六角氏)六角氏頼の招きにより現在の永源寺の地に庵を結ぶ。
そのころ集まった修道の徒が1000人と言われる。





野崎家史料

岡山人物銘々伝を語る会
太田先生の話は面白かった!
松平春嶽から山内容堂に宛てた将軍家茂死去を知らせるに密書など
どうしてこのような史料が野崎家にあったのか?そのあたりの話が面白かった。
塩田王野崎・・・・・太田先生はずっと野崎家に関係して、膨大な史料の解析をしておられる。
まさにライフワークである。
野崎家三代目、野崎武吉の時代に手に入れたものが多いようである。
五稜郭の陥落を伝える春嶽から岩倉具視に宛てた手紙など、いわゆる岩倉文書など、岩倉家もどうして・・・?

2013年2月2日土曜日

岡山人物銘々伝を語る会2月は野崎家の幕末維新史料の紹介です

岡山人物銘々伝を語る会
2月は山陽学園元教授の太田健一先生による講座です。
野崎家に襲蔵されていた史料中にある松平春嶽の密書や天狗党とのかかわりなど、史料の背景などお話いただきます。お楽しみに!



日時平成25215()※ 午後68時  (※通例は第3金曜日です)
      場所: 県立図書館 2
      内容: 「野崎家襲蔵の維新史料三点の紹介」
      講師: 太田健一(元山陽学園大学教授)
参加費:1000
【野崎家の幕末維新資料3点の紹介】    
1.松平春嶽書状(岩倉具視宛 明治2・5)…函館五稜郭の陥落を伝える密書
2.松平春嶽書状(山内容堂宛 慶応・5)…大阪城での第14代将軍家茂の死去を伝える密書
3.武田耕雲斎揮毫「酔裏楽天真」(幕末)…天狗党総裁武田妙雲の心境を伝える
注目点…これらの書状がいかなる経緯で入手されたか?児島の塩田王 野崎家襲蔵の史料から見えてくるものは何か?元山陽学園教授の太田健一先生から話を伺います。